平成25年が明けてはや5ヶ月。政局が動いて以降、様々な変化が各所で起こり始めています。何を変えるべきで、何を変えるべきはないのか。経営トップから現場第一線まで、意識の共通化が求められる時代です。
ある著名な経営研究者が『正しい経営として、何よりも社員とその家族の幸福の追求と実現を図ることが重要である』と語り、多くの共感を集めています。そこで、朝礼の時間に社員に「幸せ」について尋ねてみました。それぞれの「幸せ」の物語に心が和み、喜ばしく思うわけですが、それも束の間のこと。0.5秒後には形容し難い焦燥感が心を覆います。『これから先も同等かそれ以上の時を過ごしてもらえるだろうか』という緊張感。ぬくぬく幸せに浸っていていいわけがないのです。
…みなさんにとって幸せとはどんなものでしょうか。ひとつの参考として、少々古いものですが2006年の統計をご紹介します。
【幸せを感じる瞬間ランキング(内閣府調べ)】
1位 家族団らんの時(47.9%)
2位 ゆったりと休養している時(41.9%)
3位 友人や知人と会合、雑談している時(41.5%)
「幸福感」と「満足感」が混在していますね。たとえば、お腹いっぱい食べた時に「幸せ~!」と言ったりする人がいますが、それは明らかに「大満足」の状態。その喜びを強調したくて「幸せ」という表現を用いているのでしょうが、正確ではありません。よく似ているのが、ランキング2位の「ゆったりした休養の時間」。これは緊張感から開放された癒しや慰めで得られる満足感ですね。温泉に浸かって「あー幸せ~っ」と言うのと近い(ちなみに私は正確に「極楽ぢゃ~」と唸ることにしています)。
『何でもないようなことが、幸せだったと思う♪』
300万枚以上売り上げたという某歌謡曲の一節。先ほどのランキング1位の「家族団らん」や3位の「友人との語らいの時間」に通じる世界でしょう。「幸せ」をインターネットで検索すると「幸福は追い求めるものではなく、見出すものなのです」といったメッセージをよく見かけます。しかし…幸せが、質素な日々の中にも見出し得る満足感であるとするならば、それは、現代日本を衰退の一途へと誘う危険な価値観ではないでしょうか。「満足」を「幸せ」と混同し、求める限りにおいて、この成熟しきった社会で繁栄を遂げていくことはできないでしょう。
大切なことは、誰かの尽力あってこそその時が実現しているという理解に立つ「感謝の念」であり、そこから力強く返謝を実践する行為。そこで少なからず自らを犠牲にする(=不満足)ことになるとしても、その能動的生き方こそが幸せ(動的幸福)であると自覚し、追求する覚悟を持たなくてはならないのではないか、と。そう考えるのです。
先ほどの歌も、ただ浸っているだけの満足感を歌っているわけではないように感じています。というのも…この歌は実話に基づくものだと聴いたことがあります。そのアーティストのファンだった19才の女性が赤ちゃんを身ごもり、彼に送った相談の手紙が物語の始まり。その相手には別れた妻との間にできた子供がいて、もう子供はいらないと言っている。赤ちゃんを産むべきなのか、彼に自分の気持ちをどうやって伝えればいいのか…そんな相談だったそうです。その後、手紙の返事に従って、彼女なりに考え、彼と向き合い、話し合い、産むことになったようですが、赤ちゃんはお腹の中のまま、お母さんと一緒に亡くなってしまった。突然の交通事故だったようです。
感謝の念と焦燥感、緊張感は一体化していなければならない。そう思います。世の中を見渡せば、やれプラス思考だ、ポジティブシンキングだと、困難さに目を向けさせないアプローチを勧める方が多くいますが、様々に心配りし、力を合わせて難題を克服する能力を磨き上げた我々日本人には馴染まない。ご縁に感謝すると同時に、その無常さに思いを馳せ、身を呈して守り、次代に引き継ぐ覚悟と実践。その一人ひとりの志が、幼い子供達や年老いた者、身や心を患う者など、力弱い者に生きる力を届け、情けが循環する。その使命に生きることこそが幸せというものであり、いちいち確かめ、浸る必要などないものであるように思います。それこそが、これからの日本で改めて強く求められていく精神性ではないでしょうか。
まもなく平成25年度のKQN学習会が始まります。また新しい場で皆様とお会いし、深く対話できますことを、講師一同楽しみにしております。本年度も宜しくお願い申し上げます。
高知県経営品質協議会 指定講師 大原 光秦